第二次世界大戦とは?詳細は「日米交渉」を参照
1939年8月の独ソ不可侵条約締結は日本に衝撃を与え、当時の平沼騏一郎内閣は総辞職し、対独同盟派の勢いは停滞した。しかし1940年1月に日米通商航海条約が失効して以降、日米関係は開国以来の無条約時代に突入しており、情勢の打開が求められた。同年6月にフランス降伏、枢軸国の勢力が拡大するに及び、近衛文麿内閣の松岡洋右外相ら枢軸国との提携を主張する声が高まった。7月22日には「世界情勢推移ニ伴フ時局処理要綱」が策定され、基本国策要綱が閣議決定された。ヴィシー政権成立後の9月22日には、フランス領インドシナ総督政府と西原・マルタン協定を締結し、日本軍は北部仏印に進駐した(仏印進駐)。9月27日には日独伊三国同盟が締結された。ルーズベルト大統領は「脅迫や威嚇には屈しない」や「民主主義の兵器廠」などの演説を行い、三国同盟側に対する警戒を国民に呼びかけており、10月16日には日本に対する屑鉄輸出を禁止した。一方、水面下ではアメリカ側から密使が送られ「日米諒解案」の策定が行われるなど日米諒解に向けての動きも存在した。11月23日にはタイとフランス領インドシナ政府との間でタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、日本の仲介による1941年5月8日の東京条約締結まで続いた。
1941年4月からは日米交渉が本格化され、一時は「日米諒解案」に沿った合意が形成されつつあったが松岡外相の反対で白紙に戻った。松岡は三国同盟にソ連を加えたユーラシア四ヶ国同盟締結を構想していたが、6月22日の独ソ戦開始はその望みを打ち砕いた。松岡は即時対ソ宣戦を主張したが、ノモンハン事件において大きな被害を受けたことにより「熟柿論」が台頭する陸軍も反対し、松岡は事実上更迭された。6月25日の大本営政府連絡会議で「南方施策促進に関する件」が策定され、南部仏印への進駐が決まった(南進論)。また他方でオランダ領東インド(インドネシア)政府との石油等物品の買い付け交渉が行われていたが、6月17日に交渉は打ち切られた。
7月25日にアメリカは在米日本資産を凍結し、同日日本は南部仏印進駐をアメリカに通告した。アメリカは石油禁輸をほのめかしたが、7月28日に予定通り南部仏印進駐が行われた。8月1日、アメリカは日本を含む「全侵略国」に対する石油禁輸に踏み切った。対日制裁にはイギリスやオランダ領東インド政府も追随し、日本ではアメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲が行われるとして「ABCD包囲網」と呼ぶ動きが広まった。9月3日には御前会議で「対米(英蘭)戦争を辞せざる決意」を含む「帝国国策遂行要領」が決定され、10月末を目処とした開戦準備が決定された。アメリカは8月に大西洋憲章を締結したイギリス首相チャーチルから参戦要請を受けており、日本もドイツから日米交渉の打ち切りを勧告されていた。
10月12日に近衛首相は五相会議を開いたが、日米交渉妥結の可能性があるとする豊田貞次郎外相と、「妥結ノ見込ナシト思フ」とする東條英機陸相の間で対立が見られた。10月16日に近衛は突然辞職し、重臣会議で東條内閣成立が決まった。この推薦には東條しか軍部を押さえられないという木戸幸一内大臣の強い主張があった。10月23日からは「帝国国策遂行要領」の再検討が行われたが、結局再確認に留まり、日米交渉の期限は12月1日とすることが決まった。
10月14日に日本は最終案として「甲案」と「乙案」による交渉を開始した。11月6日には帝国国策遂行要領に基いて、南方軍にイギリス領マラヤなどの攻略を目的とする南方作戦準備が指令され、11月15日には発動時期を保留しながらも作戦開始が指令された。11月26日早朝に日本海軍機動部隊は南千島の択捉島単冠湾(ヒトカップ湾)からハワイに向け出港した。11月27日(アメリカ時間11月26日)アメリカのコーデル・ハル国務長官から来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎駐米大使に通称「ハル・ノート」が手渡された。中国大陸(原文「China」)から全面撤退すべし、日本政府はこれを全中国大陸からの撤退要求と解釈し、事実上の最後通牒と認識した。一方でこの文書には「厳秘、一時的にして拘束力なし」と書かれており、この文書が最後通牒であったかについては論争がある。
12月1日の御前会議で日本政府は対英米蘭開戦を決定。こうして日本は第二次世界大戦へ参戦する事となった。
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