吉田拓郎とは?
アマチュア期
- 1965年
- 中学の同級生と新たに「ザ・バチュラーズ」を結成、ドラムスを担当した。
- 同年秋に初コンサート。ビートルズのコピーのほかオリジナル曲も演奏した。
- メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがグループ・サウンズブームもまだの時代で相手にされなかった。
- この時応対したのはチャーリー石黒、お茶を出したのはデビュー前の森進一であった。
- 1966年
- ソロでコロムビア主催のフォークコンテストに出場。
- 中国大会で課題曲だった「花はどこへ行った」をブルースアレンジで演奏し、2位に終わったものの中村とうようから特別賞が与えられ決勝大会に進出した。
- ここで自作曲『土地に柵する馬鹿がいる』を、針金を曲げて作った手製のハーモニカホルダーと改造した12弦ギターで歌う。
- 同曲は4分の5拍子の変拍子として有名な「テイク・ファイヴ」のリズムパターンをストロークを切りながら歌ったもので、歌詞は三里塚闘争から着想を得ている。
- このコンテストの優勝者にはコロンビアからプロデビューできる特典がついていたが、ヴェークラント・クワルテット、フーツ・エミール(後に赤い鳥、紙ふうせんを結成する後藤悦次郎が在籍)に次ぐ3位に終わった。
- 審査委員長だった福田一郎が「あれはボブ・ディランの物真似ですよ」と評したのが順位に影響したともいわれる。
- プロ志向の強かった拓郎は、コロムビアの大阪営業所や洋楽部を訪れデビューを懇願したが、誰一人手を挙げる者はおらず、さらにコロムビアの東京本社にまで呼ばれて社長の前で歌ったり、他のレコード会社にも売り込みを図るが全て不合格。拓郎プロデビューまでの道は平坦ではなかった。
- 『平凡パンチ』には「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島では有名人となったものの、広島の音楽仲間からは「土地に柵する馬鹿がいる」について「フォークでない」と批判が出た。
- アメリカで発生したフォークムーブメントは、埋もれた民謡を発掘する運動で、商業的な音楽の犠牲になっている歌を日本でも掘り起こしていくべきという意見や、当時、広島が原水爆禁止運動のメッカだったこともあって、うたごえ運動をやっている人たちから、広島を歌っていないという批判を受けた。
- こうした居心地悪さと、ボブ・ディランが若い時、家出を繰り返したこと等に触発されてこの年の秋、家出しフォークの研究も兼ねて単身上京した。
- 1967年
- 4人グループの『ダウンタウンズ』を結成、ギターとボーカルを担当した。
- 同年、広島見真講堂で開かれた『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会に出場しロック部門で優勝。
- この反響は大きく市内のディスコやビアガーデン、海の家などからの出演依頼が殺到し、米軍岩国基地からも依頼を受け出演した。
- しかし「ダウンタウンズがベトナム戦争の侵略基地である岩国を慰問し演奏した、参加資格のないプロのバンドでないか」との抗議が寄せられ、カワイ楽器のバンドである点なども含め、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、これを受け入れた。
- 1968年
- 前年に引き続き『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となった。
- この時演奏した1曲『好きになったよ女の娘』は後の『たどり着いたらいつも雨降り』の原曲である。
- 優勝は後に拓郎のファースト・アルバム『青春の詩』のレコーディングに参加するマックス。
- この頃から全国的にも知名度を上げていった。
- この年の春、拓郎の発案で広島の3つのフォーク団体がアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。
- 年寄(顧問格)として参加し実質のリーダーであった。
- 『沖縄フォーク村』を始め、各地に出来た「〇〇フォーク村」は、拓郎らが作った「広島フォーク村」に触発されて生まれたもの。
- 拓郎人気は凄まじくレコードも出してないのに地元ラジオにリクエストが殺到したため、NHK広島に出演したり中国放送でDJを担当したりした。
- この年、全国で最後まで激しい学園闘争を続けた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌う。
- 演奏終了後、白いヘルメット姿の学生たちに取り囲まれ激しいアジを浴びせられた。
- 1969年
- ギター教室を持っていたカワイ楽器広島店に就職が決まっていたが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。
- 音楽界の常識を無視した長いタイトルは、アングラ・レコードであったことの象徴であるが、これは全共闘の闘争資金を得るため企画されたものだった。
- 1970年
- 2月頃レコーディング後、3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』が発売される。
- 自主制作のため「広島フォーク村」メンバーによる手売りで販売された。
- このレコード制作に関係していたエレックレコードが、拓郎の『イメージの詩/マークII』を本人に無許可でシングルカットし、関東と広島など一部地域でリリース。
- その内容に本人が抗議して録り直すことになったが、そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ社員契約することになり、「ダウンタウンズ」を解散し上京した。
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出典:wikipedia
2012/05/20 10:10
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