吉田拓郎とは?
フォークの地位の向上
- エレック在籍時には社員扱いだった拓郎の作品には作詞、作曲、歌唱の印税保証はなく、一緒にユイ音楽工房を設立した後藤由多加に聞かされ初めて歌にそういう権利がある事を知った。
- これをきっかけに、自分の歌の権利を自分で守るという意識がフォーク界に浸透した。
- それまで限られた関係者にしか知られていなかった"権利ビジネス" "制作者の権利"をミュージシャンが知ったことは音楽ビジネスの大転換でもあった。
- 1972年「旅の宿」の大ヒット中に有名な「テレビ出演拒否」を行う。
- 出演を拒否した拓郎の要求をテレビ側が受け入れ、これはテレビ業界とフォークシンガーの力関係が逆転するきっかけとなった。現在でもテレビがJ-POPを扱う場合、ある種の配慮をアーティストにするのはこの時を始まりとしている。
- 歌番組への出演を拒否した拓郎のために、テレビサイドは異例のコンサート中継をオンエアした。こうした対応も拓郎から始まったもの。
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紅白歌合戦の場合も、NHKは拓郎に相当アプローチしたが最終的に拒否され以降、ニューミュージック系の歌は紅白では聴くことが出来ないという常識が定着したものだった。
- 「テレビ出演拒否」「マスコミ取材拒否」「人気絶頂期の結婚」など、拓郎は多くのそれまでのタブーを破り、フォークにポリシーを持たせることで、歌謡曲とは違うという鮮烈なイメージを持たせ若者の心をとらえた。また時と場合によってはそうしたタブー破りがニュース価値を生み、宣伝効果を持つことも明らかにし、"芸能界"とは別のところで"流行歌"が存在できることを証明したのである。
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相澤秀禎は「1970年代は芸能界にとってテレビという巨大メディアが宣伝プロモーションには欠くことのできないものであることを決定付けた時代であったが、この大きなパワーを持つテレビをあえて拒否し独自の道を進んだ吉田拓郎らニューミュージック系歌手のやり方は、それを貫いたことで成功し定着した。これは多様化しはじめた宣伝作戦の方向性を指し示していたといえる」と論じている。
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マスメディアでの拓郎の露出の増大は、日本の音楽シーンでフォークの存在感を高め、音楽誌でも従来の洋楽中心から次第に日本のアーティストのページを増やすこととなった。
- 拓郎が登場する以前の三橋一夫ら、日本のフォークを評論していた人たちは、洋楽の片手間仕事に"日本のフォーク"を評論していたが、拓郎が急激に売れてさらにマスコミ拒否をやったため、まともな記事を書ける人がおらず、拓郎と岡林を聴いて東大を辞め、初の"日本のフォーク評論家"の看板を上げた富澤一誠の元に執筆依頼が殺到したという。
- 「ヤング・ギター」初代編集長の山本隆士も「拓郎に出会わなかったら『ヤング・ギター』はなかったと思う」と述べている。
- 小説家の盛田隆二は「いつか拓郎の本を作りたい」とぴあに入社し、拓郎が出演した映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』(1986年公開)と連動した『THE BOOK OF Ronin』(ぴあムック・1986年刊)を企画し編集長を務めたという。
- 『新譜ジャーナル』最後の編集長だった大越正実は、「高校時代に聴いた拓郎のアルバム『ともだち』から自身の拓郎大バカ人生が始まり、それが高じて編集長まで務めてしまった」と話している。
- 1999年に刊行された福島直子著「吉田拓郎サマへの道」は、「オールナイトニッポン」で拓郎が懇意にしている「月刊明星」の編集者がいることを知った著者が、拓郎に会いたいがために「明星」編集部に就職する話で、歌謡曲アイドルの専門誌だった「明星」に拓郎がしばしば登場したのはこれらの理由から。
- 「サウンドストリート」(NHK-FM)のディレクターで、佐野元春を発掘しDJに抜擢した湊剛は「吉田拓郎だけが個人的にファンで、ずーと好きだった」と述べている。
- 拓郎を入口に音楽の世界に導かれた人物は、このような出版、音楽関係者、ミュージシャンなど数多いが、テレビの音楽関係者でいえばその代表的な人物がきくち伸ということになる。
- 『新譜ジャーナル』や『guts』などは巻頭グラビアをフォークシンガーの写真で飾ったり、彼らのエッセイや対談、そしてゴシップ記事を掲載するようになった。この1972年には講談社から、拓郎らフォークシンガーが表紙やグラビアを飾る「月刊明星」のフォーク版ともいうべき「ヤングフォーク」なども創刊された(1982年廃刊)。これも拓郎がそれまでのフォークシンガーになかったアイドル的な魅力を加えたため。女の子のファンが急増しファンレターは1日500通と、アイドル並みの人気があった。1973年のツアーで青森を訪れた際には、駅から会館までの沿道を若者が埋め尽くしたといわれる。拓郎はフォーク界で初めてミーハー人気を得たスターだった。こうしてファン層を広げて、フォークのパイを大きくしていった。またこの頃から、立風書房などが、フォークシンガーやディスクジョッキーなどのエッセー集を積極的に出版するようになった。北山修「戦争を知らない子供たち」、高田渡「個人的理由」、早川義夫「ラブジェネレーション」、及川恒平「歌謡詩集」など。拓郎が1972年、立風書房から刊行した「気ままな絵日記」はベストセラーとなる。若者が書いた文章はこの頃から「身近な活字」として触れやすいものとなった。これらはフォークシンガーのタレント化をもたらし、"タレント本"の類が量産されるのはこの頃からである。
- 日本のフォークやロックの流れは1972年に大きく変わった。この年1月に発売された拓郎の「結婚しようよ」が、爆発的なヒットとなり、それまでメジャーな歌謡界や大人のメディアからは見向きもされなかったフォークソングが一転して商業的な舞台で注目されるようになった。
- 長髪で反体制的と見られてきた、そうした音楽が若者風俗として認知されるようになった。
- 拓郎が出てきて大ヒットを連発するに及んで、音楽業界でもフォークは売れるもの、十分商売になるものと考えられるようになった。フォークは"アンダーグラウンド"から"オーバーグラウンド"な存在へ浮上していく。
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渡辺プロダクションにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ。かつて岡林信康や高石友也がいくら人気を集めていても、レコードの売り上げはたかだか知れていた。
- 吉田拓郎に続けとばかり、すぐれたオリジナル曲を有する日本各地のミュージシャンの多くが上京。マイナーレコード会社だけでなく、メジャー系レコード会社もフォークの新レーベルを設立し、レコード会社もプロダクションも競ってフォークの新人たちを市場に送り込み、後に続いた井上陽水、かぐや姫らの大ヒットで大きな潮流となり、1960年代後半のカレッジ・フォークブームを凌ぐ一大フォークブームを迎えることになった。
- また演歌か歌謡曲かのくくりで燻っていた既存の歌手にも新たな道を拓くこととなった。
- 吉田拓郎最大の功績は、フォークをひいてはロックをビジネスとして確立し、日本で自作自演の音楽を普及させる大きな原動力となったこと。これにより現在のJ-POPの基礎が築かれたといえる。
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出典:wikipedia
2012/05/20 10:10
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